さて、これまで私が何度となく使って来たこの観想という言葉ですが、これはハーブヨガ全体を通してとても大きな問いであるといえます。

ハーブヨガの音声講義で私達がこの言葉を多用していますので何となくその意味がわかり、普段から観想という言葉を使っている人もいるかもしれません。

しかし、まだまだ分かっていない人も多いでしょう。

そこで、観想について坐法という視点から解説をしていきましょう。

 

まず、ハーブヨガにおける観想が最大限に発揮されるべきセクション、それが坐法の部分です。

ハーブヨガのセッションの中で一番わかりやすくて、一番わかりにくいのが坐法の部分です。

特にこの観想という言葉を私たちハーブヨガの指導者は多用して、ハーブヨガ指導の質を考えます。

「観想が伝わる」とか、「観想が甘い」とかいうふうに。

そこで、まず、あなたも考えてみましょう。

観想とはいったい何でしょうか?

どうして、ハーブヨガでは観想を重視するのでしょうか?

30秒程度、考えてみましょう。

まず、シンプルな定義から入ります。

観想というのは自分の思いを強めて、それを現実に反映させる力のことです。

これは 別段、ハーブヨガの専売特許ではなくて、ヨガの様々な流派だったり、仏教だったり、仙術だったり、格闘技だったりと、様々な分野で特に大事なものだと考えられている心と体の働きであり、技術です。

例えば、物語の中で忍者は忍術を使って大きなガマガエルを見せたりします。

これも観想のなせる技なのです。

ハーブヨガでも観想をとても重視します。

「私が世界のハーブであり、世界が私のハーブである」という観想を強めることがハーブヨガの目的でもあります。

そのために、ハーブヨガでは観想を倍加させる坐法やスパイラルを行うことで、実践者一人一人がハーブのビジョンをインプットする習慣を鍛えていくのです。

この観想の習慣が足りなければ、すぐに周囲の声に反応して自分自身を揺るがせてしまう軸のない人間になってしまいます。

観想が強まると人の体にまで影響を与えてしまいます。

なので、あまりにも強い癒しの存在感や熱の存在感を持っていたら、その人のそばでは悪いことができない、人を殺せないという現象が起きます。

 

合気道の開祖である植芝盛平先生などの歴史的な武術者の自伝では、そのような話が頻繁にあります。

例えば、悪い人が鉄砲をもって植芝先生を殺しにきたのに、どうしても撃てない。

植芝先生が一喝したらヘナっとへたり込んでしまうというような逸話ですね。

これは植芝盛平先生の弟子である塩田剛三先生の著作にとても詳しく載っています。

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これと似た話が東洋の達人の自伝の中には沢山残っています。

これは観想の強さを表しています。達人は観想によって他者を攻撃することはありませんが、観想を通じて相手を圧倒し、攻め入ることすらも許さないのです。

もしも、私たち一人一人が平和な観想の力を持ったら、戦争がなくなるということでもあります。

逆に言えば、一人一人が内側に持っている恐怖が社会全体を覆う観想になることもあり得ます。

例えば、「こままではエネルギーが足りなくなるよ」と誰かに煽られると、「それじゃ、あの地域から持ってこよう」「戦争をしてでも資源を持ってこよう」というような意見がどこからともなく現れて社会全体を覆ってしまう、こんなことがあるわけです。

私たち一人一人は他者に平和と愛を伝える観想を発揮することもできます。

しかし、同時に砂嵐を作り出したり、他者をそれに引き込んだりする観想を発揮することもできるのです。

そのどちらを選ぶかはあなた次第ですが、後者は明らかに楽しい人生とは呼べないでしょう。

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