
現在、私達は国際ハーブヨガ協会の活動を通じて日本中、世界中の方に体と対話する方法を伝えることで、「もっと私の人生に恋をする」生き方を提唱しています。
しかし、活動を始めるほんの数年前までの私は、体も心もとんでもなく重く、今のような活動を数年後に始めていることなど、自分自身をはじめとする周りの誰一人、予想だにしない生活をしていました。
そのような私が、自分が目標としていた以上の現実を生きることができるようになるまでの記録を、惜しみなく記しました。
これを私が公開するのには、訳があります。
あなたにとって、今必要な情報がここに全て綴られているからです。
現実の様々な障害にもがき苦しんでいた頃の私自身に一番読んで欲しいと思って書きました。
そして、今、同じように現時点で様々なハードルを抱えているあなたが巻き起こす物語でもあるのです。
だから、これは、明日のあなたの出来事だと思って読んで欲しいのです。
なぜならこれを読めば、願ったことは面白いぐらいに全て叶う!ということをイヤでも確信することになるからです。
そして、変わりたいと願う人は、誰でも必ず変わることができる!と私が信じている理由がお分かりいただけると思うのです。
あなたがあなたの人生への恋を始める一歩になることを願っています。
全てはため息から始まった!
・・・はぁぁぁっっ・・・!(ため息)
「・・・何にも出てこない。
私には調べたいことが何にもないなんて!」
2006年の4月頃の時点の私は、パソコンの前でため息をついていたのを今でも鮮明に思い出すことができます。
そのとき私は、検索する言葉も見つからないことでため息をついていたのです。
ご存じのように世界には色々な面白い情報で溢れています。
それなのに何にも心が動かないのです。
今思うと、その溜息は、自分自身に対する怒り、絶望、あきらめを表していたのかもしれません。
その当時の私はその位、あらゆるものに対する熱意や関心を失っている状態でした。
カリスマブログとして書籍化された主婦の子育てブログを読んでは、
「書籍化かぁ、夢みたい。
でも、私もいつかこんな風になれたらいいな」
と淡い期待を抱きつつ、自分の子育てブログをたまに更新している位でした。
ここからが、私のスタートでした。
体の声を一切、聞いていない生活
その頃の私は始めての子育てで母乳育児真っ最中でした。
初めての出産を経験し、息子が生後4ヶ月で夫のタイの大学院への研究留学に同行し、真冬の日本から真夏のタイに移ったころの話です。
南国のうだるような暑い気候にもなかなか体が慣れず、倦怠感が続く毎日でした。
大学のキャンパスは都市からは離れた郊外にあり、だだっ広いキャンパスの中はまるでジャングルで、いくつかの小さな商店しかなく、楽しみは散歩くらいしかありませんでした。
上は留学していたAsian Institute of Technologyという大学院大学の庭
そんな中、私は甘いものを好きなだけ食べる癖がなかなか抜けず、
自己嫌悪に陥りながらも貪るようにアイスやケーキを食べてしまう自分がおりました。
甘いものは、夜より朝の方が代謝されるからという理屈をつけて、朝からケーキを3つも食べることもありました。
キャンパスに戻ると小さな商店しかありませんから、バンコクに行ったときにステキな洋菓子屋さんで沢山ケーキを買い込んだり、一流ホテルのアフタヌーンティービュッフェでお腹がはち切れるほど食べることが大好きでした。
大好きなアフタヌーンティという至福の時間:2006年
こんな食生活ですから、よく母乳の中の脂肪分などが詰まって炎症を起こす乳腺炎をおこし、腫れと痛みで七転八倒しておりました。
また、腰痛も妊娠中からひどくなり、それもあって、もともと体力がなく、疲れやすい所に動けない理由となっていました。
いつもだるくて仕方がなくて、朝はなかなか起きられず、赤ん坊と一緒に一日の殆どを寝て過ごしていました。
朝寝の図:朝は中々起きられなかった
手足などの体の末端が真夏でも冷たいほどの冷え性でした。
そして体中の免疫力がとにかく低く、毎月のように、
「ものもらいができた」、「傷が化膿した」、「口唇ヘルペス」ができた、「膀胱炎になった」、
「鼻水が止まらない」「咳がとまらない」「外耳炎になった」
などという理由で病院に通い、医療費もかさんでいました。
その頃の私は、上記の症状を見ても分かるとおり、ほぼ一年中、何かの症状に悩まされていたといっても過言ではありませんでした。
そもそも腰痛を抱えている上に、なんらかの症状を常に抱えていましたし、その上、真夏でも冷房が効いている場所では寒くて震えやしびれが来るほどでした。
常に体のだるさ、痛み、冷えと格闘している状態だったのです。
また、自分以外の家族の健康問題もそれに加えて頭を悩ませていることの一つでした。
夫の健太郎は、普段はぴんぴんしているのですが、1年に2回ぐらい、扁桃腺が腫れて熱を出し始めると、2週間もベッドの上で寝たままほとんど身動きもできない状態になるのでした。
これもいつ襲ってくるか分からない宗家の見えない敵の一つでした。
彼は、高校受験の時も、大学受験の時も、普段の優秀な成績や真面目な勉強の姿勢とは裏腹に、受験当日または直前に熱を出しているという前科があったのです。
大学はそのため、一浪したことを考えると、いくら普段優秀でも、いざというときに熱を出されては、キャリアにも影響が出る大問題でした。
また息子は2ヶ月半で細気管支炎で入院をし、その後の経過は順調だったものの頬にでるアトピーを薬で抑えながら生活している形でした。
息子のアトピーは序章に過ぎず、
その後、慢性的な小児喘息へと移行していった。
母乳しか飲んでいないのに虫歯になる!?
そんな折のある日、前歯しか生えていない1歳の息子の歯に黒い線が入っているのを見つけて絶句しました。
歯医者さんに行くと、虫歯だというのです。
でも、おかしいのです。だって、まだ母乳しか与えていないのですから。
どの生活書などを見ても、母乳しか飲んでいない赤ちゃんが虫歯になることは考えられないとのことでした。
それなのに、虫歯になるなんて・・・・。
そして、こんな実験の記録の話を知りました。
マウスに直接胃袋に糖分を大量に与え続けているだけで、口から摂取していないのに、虫歯になるという実験結果を!
ですから、うちの息子が私の糖分たっぷりの母乳を飲んで虫歯になったのだ!と確信し、息子に対して申し訳ない気持ちで一杯になりました。
こんな母親を許してほしいと願い、これからの息子の健康のためにも、私はある決意をしたのでした。
宗一家、食事を変える!
それは、息子のために、徹底的に食生活を改善する決意でした。
私は、プチ断食や玄米菜食を断行したのです。
それまでにも栄養や食事、自然の手当に関する書籍はいくつも読んでいたのです。
・・・が、ちょっとやってみては、大して結果も出すことができないままほっぽり投げている状態でした。
しかし、この時、人生で初めて、私は何かを徹底してやってみることを心に誓ったのです。
そのとき、私を突き動かした書籍がありました。
それは木津龍馬さん著の「スピリチュアルグリーン」という書籍でした。
木津龍馬著:スピリチュアルグリーン
ただのスピリチュアルだけではなくて、
食生活についても言及している書籍
この本を読んで、砂糖の怖さを再確認しました。
そして、それまで毎日大量に摂取していたお砂糖は一切取らないことを決意しました。
とにかく、自分の中に長年巣くっていた砂糖中毒を絞り出すようにして、断食や玄米菜食をしながら砂糖抜きをしていきました。
※この頃の私は、書籍などで害があると伝えらえた食品は悪とみなし、徹底的に排除し、一生自分も家族も摂取しないつもりでいました。しかし失敗を経験し、様々な紆余曲折を経て今では、砂糖及びその他の食品等とバランスよくつきあい、幸せを感じられる食事を実践し提唱しています。
ただし、この時私が徹底的に行った砂糖抜きという経験自体は、誰にでもおススメできるものです。特に私のように毎日たくさんのアイス、ケーキ、チョコレート、和菓子、菓子パンなどを食べないと居ても立っても居られないという状態の方には是非実践してほしいのです。詳しくは、以下の過去記事をお読みください。
ヨガを始める!
また、その時期私は、もともと関心があって、趣味で続けていたヨガの教室が近くで開催されていることを知りました。
夏期休暇前にそのヨガ教室の先生に会いに行きました。
彼女が教えていたのは、ヨギバジャン師が伝えたクンダリー二ヨガという種類のヨガでした。
クンダリーニヨガの指導者:ヨギバジャン師
その時点では、どの種類のヨガということにまでは興味がなく、とりあえずヨガであればどんな種類でもよいと思っていました。
しかし、他の教室に通おうか試みたこともあったのですが、なぜか叶いませんでした。
ヨガを学び始めて知ったことがあります。
「出会うべき師に、人は導かれるようにして出会う」
とヨガ仲間の先輩や先生たちが皆、当たり前のように語り合っていました。
だから、後から思えば、私が他のヨガの先生のところで気軽に学ぼうとしても、なぜかさまざまな要因があって行けなかったんじゃないかと思えたのです。
今回、キャンパスの中で教えている先生がいることをたまたま知ったのです。
先生に会いに行くと、その頃、「ちょうど休暇に入るので、休暇後に通いにきなさい」といわれて、ちょうど通える手はずが整って通い始めたのです。
思えば、ずっと探していたヨガ教室ですから、この時期に本格的に始めたのには、何か不思議な縁を感じます。
ヨガというスピリチュアルなメソッドもやはり、縁が大きく左右しているのを感じます。
もし、私がこのとき、この先生に教わらなければ私はこのヨガというものを単なるエクササイズとしてしか実行せずにいたかもしれません。
この方はフランス人の女性で、人種を越えて、深いつながりをお互いに感じる友人になりました。
レイキのマスターでもあり、レイキの指導をしてくれたのも彼女でした。
その後、私は彼女に自然療法を教えたり、茶道や日本の料理を教えたりと様々な文化的交流を通じた友情を深めてきました。
彼女を招いて、日本食のお食事会をしている様子
瞑想を始める!
また、その頃ちょうど、私の身内が病気になり、看病のために1ヶ月半ほど私だけ息子を連れて帰国していました。
そして、帰りの空港で、ある一冊の本に出会いました。
それは「ワイス博士の前世療法の瞑想CDブック」でした。
何百回も聞いたワイス博士の前世療法CD瞑想ブック
それまでにワイス博士の著書を何冊も読み、魂の遍歴や過去世についての話を興味深く読んでいたので、すぐさま手に取り、タイに持って帰って早速実践してみようと購入しました。
しかし、いざ日常に戻ってみると、買ったことだけで満足してしまい、なかなかCDを聴いてみることができずにいました。
それに夫はそういう関係のことが嫌いでしたから、なかなか狭い学生用のアパートの中で自分一人の時間を確保するのが難しかったのもあります。
それが、ある時、夫が不思議な申し出をしてきました。
それは、
「このCDをやってみようか」
と、言うのです。
私はぶっとびました。
なぜなら、それまで私が前世を見たり、意識を覚醒するためのセミナーに行きたいと話すと私の家族に内緒で相談していたのです。
その結果、「あいつは本当にどうかしてる」と家族に私が責められる羽目になって、大げんかになりました。
(確かに、私もその頃は、単なる好奇心のみで物見遊山的なスタンスからそういった世界に興味があっただけでした。
あたかも、現実に向き合うよりも、過去や見えない世界の探求の方が楽でよいといった部分があったのかもしれません。
そのような姿勢をみて夫が助言をしてくれたものだったのかも知れません。
いずれにしても、どのようなメソッドや学びに触れるのも縁ですから、私にはそれらのものとは縁がなかったのかもしれません。
あの頃、逆に夫が止めてくれなければ、どうなっていたのか今となっては恐いくらいです。)
そして、ワイス博士のCDブックに出会い、夫の方からそれをやってみようという瞬間に出会いました。
なんでも、夫は、私が1ヶ月半日本に帰国している間に「長い髪をした女性が鏡の前に立って髪の手入れをしている夢」を見てから、
私の持っていた瞑想やオーラ視の本になぜか興味が湧くようになり、本を読んで少し実践してみたりしていたとのことなのです。
そして、二人でCDをかけながら瞑想をする習慣が始まりました。
瞑想を始めると、二人とも、普段では見られない不思議なビジョンが様々に見えてきました。
単なる想像や妄想との違いも分かっていませんでしたが、それでも、それらについてをシェアすることを楽しんでいました。
5感ではっきりと感じられることもあり、とても気持ちよく面白く、瞑想を終えた後にお互いが見たものを教え合うのが楽しく、この時間に夢中になっていきました。
私は、瞑想をしたときに見えてきたビジョンや聞こえた音や言葉を絵日記にして書き残していきました。
ある時などは、大きな翼で空を飛んでいる白い鳥の背中の上で気持ちよく寝ている自分を体験しました。
最初はCDをかけながらでしたが半年もすると、CDの音声誘導がなくても1時間でも2時間でも瞑想をしていられるようになりました。
とにかく、その当時は自分自身の内的な世界に降りていく感覚がとても面白く、二人だけの特別な時間として仕事の合間にも続けていました。
当時は大学構内に住んでいたので、
庭のような敷地を眺めながら瞑想をするのが日課でした。
また、瞑想を通じて驚く現象もありました。
それは、蚊がよってこないことです。
その頃の私達の部屋には蚊が沢山いて、注意していないと頻繁に刺されるのです。
それが、1~2時間の瞑想の間に、私達の体に膜でも張っていたのかと驚くほど全く刺されていないことがずっと続きました。
これは、瞑想を通じて私達の体の気がデトックスされていたようです。
タイの強い蚊ですらも忌み嫌う程の老廃物を有した汚れた気が私達の体から放出されていたようなのです。
今まで長年無意識に積もってきた感情や記憶のデトックスが行われていたのかも知れません。
瞑想の力というのは物凄いものだと、これには心底驚きました。
私はこの年の10月に3つの大きな習慣を、意識しないまま、ほぼ同時に始めていたことに後から気づいたのです。
その年の10月に全てを雪崩のように始めたのは、何かの導きだったのではないかと思えます。
私の心と体に革命を起こし、人生を根底から覆すことになった3つの習慣をまとめると以下のようになります:
1 食事に愛を込める習慣
2 ヨガを行う習慣
3 瞑想を行う習慣
私に起きた変化とは?
この数ヶ月後、私の体に変化が起きました。
今までの極度に冷えていた足の指の間が、「カッカッカッカッ」と蒸気機関車のような勢いで熱を発し始めたのです。
気づけば、私の平均体温が一度も上昇しました。
それまで毎日のように何らかの炎症
「ものもらいができた」、「傷が化膿した」、「口唇ヘルペス」ができた、「膀胱炎になった」、「鼻水が止まらない」「咳がとまらない」「外耳炎になった」などなど
を患っていた状態から抜け出すことが出来たのです。
これら3つの習慣を私が同時に始めたことは、天の意志だったのではないかと私は思っています。
もし、同時に行っていなければこのように短期間で私が変化することはなかったと断言できるからです。
さらに、今まで、何事もやり遂げることができなかった私が、とうとう、「砂糖抜き」を貫徹できたのです!
砂糖を少なくとも、3ヶ月間は一切口にしなかったのです!
その間は、サツマイモやトウモロコシ、果物などで代替していました。
それまでの私は、だるくてだるくて、頭も冴えず、始終眠く、何かイヤなことがあると、途端にカッと怒りが爆発するという性格だったのです。
それが、まるで、サナギを脱ぐように、新しい体に生まれ変わったように身も心も爽やかで気持ちがよいのです。
もう、だるくありません!
もう、夏なのに体が冷えて辛いということがありません!
「なんだって、できる!」という意志が芽生えました。
それまで、甘いものには、罪悪感を伴いながらも、好きな銘柄のお菓子が売っていたり、試して見たい新しい種類のお菓子が売っていると、自分の胃腸の調子や満腹かどうかに関係なく、
「食べないでどうする!?
試さないでどうする!?」
と、低くささやく、ドス黒い何かに突き動かされて渋々買って食べていたような気がします。
後から考えれば、これは、典型的な中毒症状。
こうなると自分の体や心の叫びは、聞き入れることができなくなってしまうのです。
体に溜まった老廃物、心に巣くった老廃物たちに荒らされ放題で、どんどん心と体を乗っ取られてしまうのでした。
タイはスイーツ天国で、砂糖中毒が加速。
ところが、新しい習慣を始めて体が変わってからはどうでしょう。
ケーキであれば、とても小さなほんの一切れをたまに頂くだけで身も心も満たされるようになったのです。
私は、こんな小さな当たり前のことができるようになっただけで、
ようやく、
「人生をコントロールするってこの感覚なのね!」
と、今まで、いかに自分が習慣の蓄積によって、天と父母から与えてもらった大切な自分の心と体を汚し、
そして、その習慣に振り回されて自分の人生を台無しにしようとしていたのかに気づきました。
この体を手に入れてから私は、本当の自分の理想の人生を歩き始めることが、
「今こそ可能になった」
と信じ抜くことができるようになったのです。
私は自分が砂糖中毒であったことに気付きすらせずに長年生きてきました。
でも一連の習慣を身に付けることによって、ただ単に甘いものが凄く好きなことと、自分の罪悪感を越えて欲望に振り回されてしまう行動とはまったく次元の違うものだと知りました。
これは甘いものに限らず、様々な欲望に関して言えることです。
例えば、喫煙・飲酒なども同じです。
そして、いかに多くの方が程度の差こそあれ、このことに気づかずに生きているか。
また気づいている人がいざ、それらを改善しようと試みるときに、いかに効率の悪いアプローチをしてしまうのかについても考えさせられました。
食事だけを改善するというような単一のアプローチをいくらやっても、物事の本質を見ないままでは効率が悪いのです。
私達人間を構成する全ての要素について、一つの魂を持った人格として、愛を込めたアプローチでなければ人間は変わることはできないのです。
私が試みた方法は、心と体と関係性、魂の過去と現在の未来の全てにアプローチしてデトックスし、自分の力で歩み出す力を養うことができました。
そして、この習慣を今すぐ必要な方に知って欲しいと願い始めたのもこのころです。
一日の時間を大切にする!
また、このように
「自分の人生は自分でいかようにも変えられる」
ということを体験から確信した私達夫婦が次に取り組んだのは、早起きの習慣でした。
「朝2時起きでなんでもできる」という本との出会いがあったのです。
枝廣淳子著:朝2時起きでなんでもできる!
この本では、「人生の手綱は自分で握る」というスタンスを、まずは寝て起きる時間の使い方から教えてくれるものでした。
この著者の方は2時に起きるというライフスタイルを送っていらっしゃいます。
でも、一番重要なことは、何時に起きるかではなくて、自分にとってのベストを常識に囚われずに見つけ、徹底的にやってみることの大切さです。
私達は、それまで、赤ん坊を抱えていたので、夜、寝かしつけてから瞑想をしたりなどをしていました。
しかし、子どもが夜泣きをしたりすると、その都度中断しなくてはならず、なかなか自由になりません。
そこで、この著者も子育ての中で行ったという、
『夜は子どもと一緒に寝てしまう』
という方法を採用してみたのです。
それまでは、寝る時間についてをあまり深く意識することはありませんでした。
「12時くらいに寝ればいいかな・・・」という曖昧なもので、その時によって、何か意味もないことで、もたついていたりしたら、1時や2時になってしまうこともありました。
つまり、寝る時間に関して、なんの手綱も握っていない状態だったという訳です。
しかし、そこから私達は夜9時頃に寝て、朝4時半頃に目覚め、瞑想をするという習慣が出来ました。
そもそも朝方が瞑想には一番適した時間帯なのです。
朝ご飯もゆっくり作り、なにより、朝もやの爽やかさを味わいながら、ゆとりを持って一日を始めることができるようになりました。
この習慣で、「夜に子どもを寝かしつけてから大人は自分の好きなことをするべきだ」
という自分が勝手に作った思い込みを見直すことができました。
子どもにとっても夜に両親が一緒に寝てくれると安心して寝られるし、私達も一番新陳代謝が促される時間帯にぐっすりと深く眠れます。
そして、朝方は子どもは7時頃まで寝ていますので、4時半に起きれば、実に2時間半も好きなことに集中できたのです。
このようにして私たちの場合、親と子、双方にとってのストレスの原因を見極め、ベストを導き出すことができたのです。
瞑想だけではなく、映画を見たり、読書をしたり、料理したりすることにもたっぷりと朝の時間を使えました。
必要な時には向こうから手はずを整えてくれる
この時間管理の習慣というものを身に付けた私達を待っていたかのように、次の現象が起こりました。
それは、夫の留学のためにタイに来て研究していた訳ですが、その研究費と生活費が予想以上にかさんだため、収入を得る手段を探さなくてはいけなくなったのでした。
夫は学生でもあるし、私は子どももいる。
このような環境で仕事をするにはどうしたらいいだろうか、と考えていました。
すると、タイミング良く、大学から日英の翻訳を出来る人の募集のよびかけがありました。
翻訳なら、子育ての合間にでも出来そうでしたし、夫も研究の合間に取り組むことが出来ます。
そこで、すぐさま、翻訳の仕事に応募したのです。
そして、始めの頃に得られた仕事はひたすら国際結婚をする方の戸籍謄本の翻訳でした。
それは、ほんの1ページか2ページ程度の仕事ですから、たったの1000円か多くて2000円という程度の仕事です。
それを一週間に1~2回ほどもらえるという位の状況でした。
一度、何十万円単位の大きな仕事の打診がありました。
夫と二人で空中で両手を叩き合って喜びました。
「やった!これでなんとか学費を払って生活出来るね!」と。
しかし、これはぬか喜び終わったのです。
どういうわけか、その話は流れてしまいました。
このままでは正直、厳しい状況です。
とにかく、生活のめどが立たないので、どうにか他の仕事も見つけなくてはいけなくなりました。
もう、ワガママは言っていられないので、近くの日系の工場で私がフルタイムで働くことを真剣に検討していたのです。
タイには沢山の日系企業がある
もし、こういった場所で働いていたらどうなっていたのでしょう?
さぁ、想像すら出来ません。
まずは、その時点で1歳7ヶ月だった息子を預けて仕事を探すことにしました。
同じ大学院のキャンパスの中にいらっしゃる研究員の日本人の奥様からお話を伺ってみると、
隣の大学の付属の保育園に預けるしかないけど、そこは行列待ちでかなり順番待ちしないと入れないと教えて頂きました。
ダメもとでその保育園に行ってみました。
すると、またも私たち夫婦をびっくりさせる出来事が起こりました。
「あなたたちを待っていたんですよ!」
と受付の事務の方が言いました。
私は何のことか分からず、しばし、唖然としてしまいました。
「んん・・?なんのこっちゃ?」
実は、その時点から1年も前にたまたま、隣のキャンパス内で行われていたヨガクラスに参加を打診していた時に、
近くにあった保育園で「子供を一時預かりできないか」と話を聞いていたんです。
実はその保育園こそが、この大学付属の保育園だったのです!
また、その際にキャンセル待ちの書類にサインをしていたのでした。
私はそのときのことなど、すっかり忘れていました。
1年前のヨガクラスに参加するための一時預かりのためのキャンセル待ちの申し込みが、
今回ちょうど、仕事のためにどうしてもすぐに入園したいという希望を向こうから叶えてくれた形になったのです!
何だか夢を見ているような不思議な話です。
しかも、その保育園は、1年前、所在していた場所は、ビルの中の一角の庭もない保育園だったのですが、
私たちが入園させることが決まったときには、一軒家の庭のあるすっかり大きな所に移転していました。
まさに、「運がいい」とはこのことです。
息子の通っていた附属保育園の様子
この頃から、私達は半信半疑にも、「運の良さ」というものはコントロールできるものだということに気付き始めました。
自分にとって必要なことは、上記の保育園の件のように、全て必然のタイミングでしかも自然な流れで運ばれていくのです。
そのことについてどんどん確信せざるを得ないことが続いて起こるようになりました。
感謝して仕事をすると次の大きな仕事に「呼ばれる」!?
とにかく、これで、ようやく仕事を始めるための体制が整いました。
私たち夫婦はキャンパスから1時間半かけてバンコクまで行ってダメ元で翻訳の仕事を見つけに行きました。
まず、一つ目に面接に行った会社ではこんなことがありました。
大きなビルの中に入っている会社なのですが、夫が上の階にある会社に面接に行き、
私はそのビルのロビーで息子と待っていました。
すると、私は突然、頭が痛くて仕方なくなってしまったのです。
夫がロビーに戻ってきて、
「頭が痛くて仕方ないよ、もうダメだぁ」
と、いいながら一緒にビルの外に出ました。
その途端に頭痛が止んだのです!
「あの頭痛はなんだったんだ・・・!?」
と、ぞっとする出来事でした。
私が頭痛がするその間、夫はその会社の人と面談していたのですが、希に見るほど、話が伝わりにくい方だったそうです。
結構なネガティブオーラがでていたらしく、普段、ほとんどの人と、明朗に話しができる夫には意外な展開でした。
そんな出来事を象徴するかのような私の頭痛に、なんかイヤな感覚があったのでしょう。
その仕事はサンプルの翻訳を提出してみたものの、結局「今は間に合っているから、すぐには頼めないかも知れない」とのことで流れてしまいました。
いずれにしても仕事の内容も料金も私達の必要とする条件を満たすものではなかったのです。
あたかもあの時の頭痛は、
「あんた達はそこで仕事をするべきじゃないよ」
と何かが教えてくれているかのようでした。
「これから、どうしようか?」と、相変わらず生活の目処が立たず過ごしていた、そんな折、あるマッサージ屋さんに行ったのです。
すると、待合スペースに古い日本語情報誌が置いてありました。
日本語フリーペーパーのDACO:バンコクには沢山の日本語フリーペーパーがあるのです。
ふと開いた1ページには、また違う会社の翻訳者募集のお知らせがあったのです!
どういうわけか、その記事を見た健太郎には確信があって、「なんだかいけそうな気がする」といいます。
早速そこに連絡すると、今も探しているとのことで、すぐに面接に行きました。
なんと、この会社の社長は、夫と同じ大学の出身でした。
そして、始めから意気投合し、仕事を任せてもらうことになったのです。
なんというご縁でしょう。
後から社長に聞いたところによると、この会社は普段はタイ人の翻訳者が主流のため、日本語のフリーペーパーに広告を出したのはこの時限りだったとのことなのです。
なんだか、背筋がゾッとしてしまいました。
「ありがとう」の習慣
また、この頃から私達はある習慣を取り入れ始めました。
モノの本によると、感謝するということが開運と大きく関係することを知ったからでした。
それは、感謝するという習慣です。
仕事のない私達に仕事を与えてもらったことに感謝。
翻訳会社の社長さんに感謝。
この会社に仕事を依頼してくれたクライアント様に感謝。
とにかく、毎朝、掃除しながら、「本当にありがたい、ありがたい、ありがとうございます」と感謝していました。
夫と二人で翻訳した初めての仕事はカメラの会社の世界的な企業の仕事でした。
それは1万円くらいで、そつなくこなすことができました。
技術的な翻訳の場合、私も夫も得意分野ですのでですんなりと二人でこなしました。
しかし、次は一回当たり、350B=1000円くらいのお好み焼きレストランのメニューを紹介する仕事がきました。
実際に日英翻訳したメニューブックのサンプル
始めの仕事に比べて10分の1の金額の仕事ですが、技術的なことではないので手間は10倍かかります。
その店のこだわりの素材や店名の由来について、お好み焼きの歴史的な背景についてをとうとうと語っている文章を英語にする仕事でした。
このような、ニュアンスを伝えなければならない文章を英語にするというのは中々骨のいる仕事でした。
しかし、私は日本文化をしっかり外国の方にも知ってほしいし、なにより、クライアントさんの気持ちをしっかり汲み取って訳して差し上げたいという気持ちで行いました。
結局、時給にして150円から200円くらいになってしまうほど、時間もかけ仕上げたのです。
「こんな小さな規模の仕事を手間をかけてやるなんて、あまりメリットないな」
などと一切嘆かず、楽しんで取り組んだのです。
すると、どうでしょう。
この仕事に対して、実は、翻訳会社の社長がネイティブチェックをかけていたのです。
「いつもは、この人にネイティブチェックを頼むと、日本人の日英の仕事に対しては、
もう、ぼろくそに訂正されちゃうんだけど、それが、今回はその人が褒めてたんだよ。」
「本当ですか!?」
「褒めることなんて滅多にない人がさ、『良くできてるよ。だってほとんど、訂正が必要ない』って・・・」
「ヤッター!!!」
心の中で大きなガッツポーズをしました。
思いもよらず、私の仕事が評価されたのです。
以前までの会社の仕事も、何ヶ月もの間、戸籍翻訳(1000円ほど)の仕事をぽつぽつとやってきていました。
ただし、いざ大きな仕事の話が来たのに、流れてしまったという過去がありました。
しかし、全く同じ、たった1000円ほどの小さな仕事が、今度は、絶大な信頼関係を結んでくれたのです!
そこからは、とんとん拍子に大きな仕事がやってくるようになりました。
感謝して全力で小さな仕事にも取り組む姿勢が
打ち出の小槌のように次の大きな仕事を運んでくれるかのようでした。
一回あたり何十万円という規模から百万円単位のものまでです。
私は、この縁の不思議そして、運の不思議というものを感じざるを得ませんでした。
なぜなら、同じ仕事に取り組んでいても、同じ単価の仕事をしていても、
自分の本来持っている実力を評価されるチャンスがやってこないままに
ずっと同じ土俵の上をぐるぐると巡っているだけの時があったり、
はたまた、いきなり、チャンスに恵まれることがあったりするものだ、と。
そして、その差を分けるのは何だったのかが分かったのです。
それは、魔法の習慣を持つこと。
これ以外にはないのです。
そして、この習慣の変化こそが一回たった1000円の仕事しかもらえなかった私たちにその1000倍の報酬を持ってきてくれたのです。
私が確信したことは、1つめに、習慣が変わると、チャンスに恵まれるようになることです。
そして、2つめに、心と体が習慣によって、活気づいていれば、そのチャンスを生かし切ることができるようになるのです。
毎日を楽しく、元気に感謝する習慣をもって生きていると、自分を何倍も飛躍させてくれるチャンスが突然目の前にやってくるのです。
そして、習慣のおかげで強靱になった心と体はそのチャンスを見事にモノにするだけの
パフォーマンスを発揮してくれるようになるのです。
このお話は私がハーブヨガを生み出し、指導し始める前のお話です。ですが、私がハーブヨガの指導者たちを育て始めるとこの「縁と運」の話は様々な形でそれぞれの方に現れているのを観察しました。
同じように資格取得し、能力を持った方たちがそれぞれ縁を手にして活動を始めても、
夢のKOTODAMAが現実を創り出す不思議
そして、翻訳をするようになった私がこの頃、また新たな習慣が出来ました。
それは、好きなこと、やりたいことをノートに書き出していくことです。
とにかく、深く考えずに、自由に自分の中に浮かんできた希望みたいなものを書きだしてみたのです。
『日本語や日本文化を教えてみたい』
『本を出してみたい』
などです。
しかし、その時の私は、つい2,3ヶ月前まで、どんな仕事でもいいから工場でフルタイムで雇ってもらうことが一番現実的だと思っていた位でした。
ですから、始めたばかりの翻訳にはほとんどキャリアもない状態でした。
加えて、病気がちな子どもの育児をしている生活でしたから、私にはこの趣味を極めて独立したい!とか、この仕事で人の役に立ちたい!とか、具体的に決まっているわけではありませんでした。
本当に漠然と、何か自分だけの仕事という生き方ができれば、
「子育てをしながら仕事が楽しくできるかもしれない」
と思い、強烈に惹かれたのでした。
しかし、その時は、まだこんな店はどうだろうかな~などと、カフェや雑貨を販売しているお店の絵などをイメージして書いてみている程度でした。もちろん、いつまでに、とかどこで、なんてことすら想像すらできませんでした。
そのような将来の漠然とした夢を思い描きながらも、後に私がKotodamaワークと呼ぶようになる、ノートに自分との対話を書き出す習慣を進めていました。
そして、目の前の翻訳の仕事からはっきりとした到達地点を定めることができました。
まず、目指すようになったのは、「朝2時起きでなんでもできる」の著者枝廣淳子さんのように国際会議の通訳者になることです。
国際交流に貢献する仕事がしたいという一環で、目指すにはやりがいのある目標でした。
なんと、私に燃えるような目標ができたのです!
私がはじめの3つの習慣を始めてたった半年しか経っていない状況です。
1年ほど前、何にも興味が持てずに検索するキーワードすら見つけることができないで溜息ばかりをついていた「私が」です。
それというのも、体が整ったからこそ人並みに仕事ができるようになったというのも大きい理由です。
そして、新しく生まれ変わった私達の体には、人より多くの仕事を短時間にしかも正確にこなす力すら生まれていたのでした。
大きな仕事の打診がきて、それらをすんなりと受けられるようになった背景には、もう一つ、理由があります。
それは、それまでに実践してきた早寝早起きの習慣です。
だから苦もなく早起きをして仕事に取りかかることができたのです。
大量の仕事を正確にこなし、納期にゆとりを持って提出することができたのも、この習慣があったことに大きく感謝しました。
朝、子供が起きる前に時間を確保することができるので、保育園に行かせている時間よりも数時間分仕事を多くこなせるのです。
だから、納期には他の人より断然早く正確に提出できるのです。
そのような強みもあり、私たち夫婦の翻訳者コンビは圧倒的な支持を得られ始めていました。
しかし、私が翻訳の仕事を始めて打ち立てた目標である「国際会議の仕事」はまだまだ遠い夢の話でした。
日々、子供を自転車の後ろに乗せて、ものすごい埃が舞い上がる道を一生懸命保育園まで送り出したあとに、大汗をかきながら、Tシャツと短パンで、ひたすらパソコンに向かっている姿と、
キラキラと輝く国際会議の場で仕事をするということは全く別次元のことと捉えていました。
短パンとビニールサンダルが日常ウェアの翻訳を始めた頃。
息子は貧血と便秘と喘息の3つの爆弾を抱える虚弱体質。
タイの真夏の気候でもいつも長袖長ズボンスタイルだった。
それでも、理系の技術翻訳、文化、歴史系と様々なジャンルを一手に引き受けて一躍、バンコクでトップクラスの翻訳者に躍り出ました。
当時は二人で大量の文書や図表を翻訳していました。
コンピュータープログラミングの書籍を丸々一冊翻訳したこともあります。
目の前の仕事に一生懸命取り組みながら、私たちは、知らず知らずのうちに『あるステージ』にたどり着いていたのです。
そのステージとは、
2007年秋、国際機関の環太平洋地域の各国の代表が集まる政治経済活動についての会議の「議事録と要約の作成」の仕事の依頼がきたのです。
「えっ、国際会議の仕事だ!」
今まで目標としてきた国際会議の舞台の仕事でした。
政治経済についての翻訳はやったことはないけれど、夫が環境経済についての研究をしているのだから、大丈夫。
私は英語の聞き取りには自信があるのだから、大丈夫。
と、自分たちに言い聞かせて「やります、できます」と若干膝に震えが来ることも構わず、引き受けてしまいました。
そして、当日、私達は久しぶりに一張羅のスーツを着込みました。
そして、相変わらず乗り合いバンに乗って、バンコクを目指しました。
乗り合いバン(ロットゥー):1台のバンに12人が定員。
この乗り合いバンには時刻表はなく、定員に達し次第、順次出発という非常にアバウトな乗り物。
スカイトレインを乗り継ぎ、会場の五つ星ホテルまでは徒歩で行きました。
次々に高級車が到着するそのホテルでは、その日の参加者で徒歩で会場玄関に到着したのは私達二人くらいだったのではないかと思います。
会場となったThe Sukosol Bangkok(旧Siam City Hotel)
会場となるホテルはもちろん、5つ星ホテルで、外観からロビーからキラキラしていました。
赤い絨毯が敷かれ、花で彩られた会場入り口には、会議参加者をおもてなしする飲み物やアペタイザーが差し出されていました。
このような歓迎を一スタッフの自分たちも各国代表と同等にいただけることに恐縮しながらも、そのおもてなしのありがたさにある種の到達感を感じました。
「遂にここまで来れた!」と、しみじみ思ったのです。
実際の現場に入ると、何十カ国もの代表が集まり、それぞれの国の強烈なアクセントの英語が飛び交いました。
会議の内容自体よりも、手強いものが待っていたのです。
私たち夫婦は一部の地域の方達の英語があまりに聞き取りづらく、想定外の事態に失神しそうになりました。
しかし、勝負はここからです。
家に持ち帰った会議の音声を本当に耳の皮がすり切れるまで何度も何度も聞き返しながら議事録を作成しました。
納期はものすごく短いものですから、眠くなったら石でできた床に転がって休み、またすぐに起き上がって取り組みました。
この取り組みの結果として、「次の年にも私たちにまたお願いしたい」と依頼される出来となりました。
この経験を通じて、
私は、
「すごい・・・!夢が叶ってしまった・・・!」
と、背筋がゾクゾクする思いでした。
通訳として参加するという形ではなかったけれど、確かに目標とする国際会議の仕事をこなすことができたのです。
この国際会議の現場で活動できるようになるまでの期間は奇しくも、
ちょうど、あの魔法の習慣を始めてから1年後だったのです。
夢が叶った私は、もしかして、ひょっとすると、今までしたかったことの全てが本当にかなえられるんじゃないかと考え始めました。
あれもこれも、いつかはいつかは・・・と思い描いていることの全ては、実はあっという間に叶えられることなんじゃないかと思い始めたのです。
そこで、やりたかったことを全て書き出してみたのです。
●子供がいるから
●子供が病気がちだから
●外国(それも郊外)に住んでいるから
●主婦だから
●まだ若すぎるから
●もう、こんな年だから
・・・・様々な言い訳をして行動に移せなかった数々のやりたいことを書き出してみると胸が高鳴りました。
●ヨガの指導者の勉強がしたい
●国際交流のための仕事がしたい
●歌の勉強がしたい
すると、いろいろな情報が集まってくるのを感じました。
まるで神様が近くで見ていて、そちらの方向に糸をたぐりい寄せてくれているようにです。
まず、今まで通っていたヨガの教室に講師資格認定講座の情報があったことに気づきました。
先生に聞いてみると、すぐさまバンコクで講座が受けられることを知りました。
そこで、早速、ヨガの講師資格認定講座を受講することに決めたのです。
しかも、この時の資格認定講座の開催日程は土曜日に1日ずつ開催されるという形でした。
だから、日曜日に息子を夫に任せて私はバンコクまで数時間かけて資格認定講座に参加できたのです。
しかし、私が講座を終えると、その次回以降の日程は平日連続で受講する日程に変更になっていました。
もし、私が受講する時にそのような日程だったら、私は確実に受講することをためらってしまったのに違いないのです。
これも、天の采配を受けて、この講座を受講できたのじゃないかと思っております。
仕事がなければ仕事を作る
翻訳の仕事を通して、私は国際交流や日本の文化を世界の人に知ってもらうお手伝いをすることが好きだと言うことを再認識しましたし、大変興味が湧きました。
そして、その頃、なぜか突然、
「日本語を教えてほしい」
という人から連絡がありました。
実は、翻訳をぽつぽつと行っていた頃、日本の国際交流のサイトで「日本語を教えます」というお知らせを出したことがあったのです。
そのときには、何の音沙汰もなく、何ヶ月も放置されていたのに、翻訳の仕事が一つの山を迎えて『何かもっとやりたい!』と思っていた頃に調度、連絡が来たのです。
私の心は既に翻訳から離れて国際交流のための仕事がしたいということで一杯になっていました。
しかも、大きな夢も願えば叶うと体験から確信した私ですから、ただその方一人に日本語を教えるのではなくて、もっと多くの人を巻き込んで日本の国際交流に貢献したいと思いました。
なぜなら、「私たちが暮らす大学院の中で、日本語を学びたいと思っている方が多いんじゃないか」と常々察していたからです。
健太郎の留学していた大学院大学のAsian Institute of Technology
この大学院には、アジアを中心に世界中から学生が集まっていました。
学生といっても、国の将来を担うような重要なポストの仕事に就きながらさらに学んでいる方がほとんどでした。
そのような方達は、日本との関係性が深く、日本の技術を学んだり、日本に留学したり、仕事で訪れたりすることが将来的に必要だったり、夢であったりする方が多いのです。
だから、日本語を学ぶことはみんなの憧れですし、実際に切迫して求められていることでもあったのです。
しかし、この大学院には日本語を学ぶコースがありませんでした。
それならば、自分が教えてみてはどうかなと自分で大学の語学センターの学部長と直接交渉してみたのです。
いかに、多くの学生が日本語を今すぐ学ぶことを必要としているか、多くの学生がわざわざ遠くまで日本語を学びに行かねばならない状況であるか、
この大学はアジアの発展のために作られた大学で、この大学こそが学生の求めに応じて日本語コースを提供すべきではないかという点を説明しました。
そして、講師としては、私自身が適任者であることもお伝えしました。
すると、すんなりと学部長は私に日本語コース設立のプロジェクトを一任してくださったのです。
私は、英語を指導する経験は家庭教師や塾講師などで経験を積んでいたし、翻訳の仕事のキャリアもなんでもかんでも売り込んでみました。
それにしても、日本語講師の経験も全くゼロのところから、
国際的な大学院大学の日本語コース担当の主任になってしまったのです!
また、日本の文化を伝える活動もしたいからと、すぐに国際交流のための慈善茶会を企画しました。
このために、茶道の講師の資格と経験を持つ私の母を講師として日本から招待し、バンコクの日本人の方達の中からボランティアを募りお手伝い頂き、多くの外国人の学生やご家族の方達にご参加いただいてワークショップは大盛況でした。
ワークショップの様子:着物を着ているのが母
また、以前から興味のあったアカペラの愛好会にも入りました。
小さいながらも一歩一歩やりたいと思っていたことを叶えていったのです。
そして、鳥蝶をバンコクに設立する!
資格認定講座に参加しながら、私はヨガを何人かの方に教え始めました。
また、息子の小児ぜんそくの克服の経験から日本の自然療法についてもワークショップを開催したり、小児ぜんそくを患うお子さんをお持ちのご両親に求められて体質改善のための指導を始めていました。
その中でも、ヨガの講座は出張形式で行っていましたが、口コミで次第に多くの生徒さんが集まるようになり一つの決心をしました。
それは、自分たちの思い描く、ヨガや食事など生活を豊かにするための全ての方法を包括的に(ホリスティック)教え、心体人間関係のすばらしさを伝えるサロンの開設です。
私達は二人で熱く語り、夢中になってその夢を現実に移せるように走りました。
当時住んでいたのは大学構内の1LDKの寮でしたが、その数倍の家賃を払ってでも開設したいとこみ上げるものがあったのです。
なぜなら、バンコクまでの距離を毎日のように出張形式で行うには、肉体的にも限界がありますし、
やはり、指導の枠組みもおもてなしも全て自分たちでプロデュースできる自分のサロンを持ちたい!と考えるようになったのです。
そして、トントン拍子にことが運び、サロンを始めて、盛況するようになったのがちょうど、私達が習慣を変え始めた頃から2年が過ぎた頃でした。
自分のお店をもってみたいという漠然とした夢をなんのあてもなく描き始めたその1年後に、私達一家がバンコクでサロンの物件を内見していることになるとは、私自身、後から思えば背筋がゾッとするほど、思ってもみない展開でした。
バンコク・トンローのサロン
その後、バンコクのサロンは話題を呼び、世界中のメディアやお客様が訪れて、体質や人間関係に大きな変化を体験するお客様の声を次々に頂くようになりました。
香港のメディアが取材に来たときの記事
それから2010年4月には初めての書籍を出版することになったのです。
2010年にマーブルトロン社から出版した姿勢美法
あなたの願うこと全てが現実化してしまう
思い出してください。
冒頭で述べた私が溜息をついていた時、なんて言っていたかを。
「書籍化かぁ、夢のまた夢だよね」
これです。
はい、そうです。
この言葉のその通りでした。
確かに2006年の4月の私が書籍を出版することなど、完全に夢のまた夢であったことは私以外にも世界中のだれもが認めるでしょう。
しかし、
それからきっかり4年後、習慣を変え始めてから実にたったの3年半の歳月ではい、実現しちゃいました。
その「夢のまた夢の」書籍出版までもが。
お分かりでしょう。
人間には不可能なんてないっていうことが。
本当に、ただただ「転がる」ようにそこに辿りついてしまうんです。
確かに目の前のことのためにはベストを尽くしてきたつもりです。
しかし、その目の前のことが次々と次のチャンスを運んでくれ、ただ飛び乗るように勢いよく生きていただけです。
そして、気がつくと夢が叶っていたのです。
そうです。
願ったことは叶ってしまうんです。
それから先は冒頭で述べたような経緯で私は今、あなたに語りかけています。
なぜなら、これは、あなたの物語でもあるからです。
この文章を書き出してみると私自身、もう疑うことすらばかばかしくなるほどに明らかなんです。
それは、「あなたの願うことの全てが実現してしまう」っていうこと。
もちろん、何もしなければ、あるいはアプローチの仕方が悪ければ何も起こらないし、もしかしたら悪い方に変わっちゃうかもしれない。
だから私はあなたに人生に恋するための習慣を知ってほしいのです。
この習慣を身につけることで、あなたはゆっくりと、しかし、確実に現実を動かしていくことができます。
もちろん、この当時までに私の行ってきた習慣はとても荒削りなものです。
そこから10年以上が経過し、たくさんの仲間と積み重ねてきた経験の蓄積によって
人生に魔法をかける知恵は磨かれていきました。
それを私たちはハーブヨガと名付け、たくさんの方に知ってほしいと思いこれまでその知恵を公開してきました。
さぁ、あなたの物語の扉を一緒に開いてみませんか?

国際ハーブヨガ協会の公式アカウントです。宗冨美江(Fumie MUne)と宗健太郎(Kentaro Mune)による共同執筆の記事となります。